起業!そして・・・
販売をメインに起業したが、
業態のちがう「製造業」にも進出?!
「二足の草鞋」を履いて
事業はうまくいくのか…?
事務所を移転したのをきっかけに、
「製造業」にも進出しようと試みたものの
そんなに簡単にいくわけもなく…。
そんな時に、あるメーカーから外注のオファーが
入ります。
バブルが崩壊し、社内の設備投資も抑えないといけない
状況でメーカーの戦略として工賃の安い外注を使うという
方向にシフトすることになったんですね。
こちらとしては、以前の仕事が軌道に乗れる
要素がなかったので、そのオファーは有難い話でした。
すぐにメーカーの担当課長と打ち合わせをし、
外注先として採用してもらえることになります。
ハンダなども使用するため研修を受けさせたり
設備の使い方のレクチャーなどパタパタと慌ただしい
日々に突入します。
毎日、慌ただしく動いてはいたのですが、
「忙しい」=「儲かる」
という図式にはならないんですね~。
当然、キャッシュポイントとなる製品の製造には
ある程度の期間は到達できません。
その間はメーカーの方で最低限の人件費の補償を
してもらえたので助かりましたが…。
わたしの方は「製造業」のみに没頭するわけにいかず
「販売業」との並行になります。
朝早くから夜遅くまで動きまわっていたわたしは
気付いたら6キロも痩せてました(^^;
なんとか軌道に乗り始めたかに見えた「製造業」でしたが
そう簡単にはいきません。
製品の仕様変更のため、研修や設備の加工など
なかなか順調には進まないんですね…。
そんなこんなでなんとか軌道に乗り始め
社内には10名、内職さんが50名という人員で
動きだします。
それと同時期に「販売」の方も人員の補強と
営業所の開設などなんとか会社として機能していきます。
「下請け(外注)は、愛人のようなもの」
↑この言葉は同じ外注の仕事をしていた会社の
社長さんがよく言っていたことです。
この言葉の意味わかります?
ようは自分たちの都合で逢いに来たり、捨てたりする
という意味です。
※注:愛人業をされている方を侮辱するようなことでは
ありませんので誤解のないようお願いします!
仕事があるうちはいいけれども、メーカーに依存し過ぎると
「痛い目」に合うこともあるから気を付けようという例え話
です。
でも、大抵の人は良いことが続くと思ってしまうというか
続けばいいと思いますよね。
わたしもその一人でした。
しかし、その思いが打ち砕かれるのは意外と突然でした。
起業して9年になろうとしていたころ「愛人」契約は
「中国女子」に持っていかれます。
国内よりもコストの安い中国に製造ラインを移すことに
なり仕事はゼロに…。
メーカーからの補償が多少あったので解雇せざるおえない
社員には少しばかりの「退職金」を出して上げれたので
助かりましたが…。
借りていた事務所兼工場は老朽化のため「製造業」撤退の
3年前に使えなくなり、数千万投資(借金)して新築した
ばかりだったんですけどね。
「製造業」が無くなり販売の方に集中することになり
なんとか売り上げもキープしていたころ、またもや「暗雲」が
立ち込めてきます。
なんだと思います?
それは! 「市町村合併」です!
なんで「市町村合併」が暗雲なんだよ!?
と、突っ込まれると思いますが我社の売り上げの
約7割は市町村役場で占めていたんですね。
合併すると今まで町単位で消化していた予算が「市」という
大きなくくりの中で施行されるようになるわけです。
簡単にいうと町単位で消化できる予算が減るということ
なんです。
合併してみないと予算がどれくらい削減されるかは分かりません
でしたが、予想よりはるかに少ない予算になってしまいました。
当然、我社の売り上げも激減!
民間のお客さんも景気の不透明感であまり活発な
設備投資もなく…。
それでもなんとか頑張ってくれていた営業も
かなりキツイ状態になってきて1人また1人と退社して
いきます。
営業所の所長も最後まで頑張ってくれましたが、
状況がもっと悪化する前に自分の身の振り方を考えてほしい
ということで退社してもらいました。
振り出しに戻って一人になったわたしは
営業所の社屋と土地・工場兼事務所の売却を知り合いの
不動産屋さんにお願いして事業の縮小を進めます。
そのような状況なので金融機関にも相談しながら
進めていたのですが、ある金融機関に裏切られます。
金融機関にしてみたら当然のことをしただけなのでしょうが、
600万もの資金を突如、引き上げられてしまいます。
ただでさえ売り上げが激減していた状況での600万は、
どうにもできませんでした…。
そうです!
16年間経営していた会社はあっさりと倒産して
しまいました。
不動産の方はなんとか売却できたので、その部分の負債は
回避できたのですが、運転資金等で借り入れた数千万の借金を
背負うこととなります。
その時はけっこう落ち込みましたが、
感傷に浸っている暇はなくなんとかしないと!
と、奮起しようと頑張ったのですが…。
現状はかなり厳しいものでした。
でも、かわいい3人の娘たちと家族が一緒にいれる
のでわたしは幸せ者ですね!
自分のためにも、娘たちや家族のために
必ずや復活してみせる!!
と心に誓うのでした!
起業!そして独立起業!!PartⅡ
意気揚々と起業したのだったが…。
たったの3カ月あまりでなにがあったのか?
是非、ご覧ください!
あと2週間ほどで新年を迎えようとしている
時に「無職」になってしまった私は
「これからどうしようか?」と考えます。
計画的に退社したわけではないので、
今後のことを具体的に決めていたわけもなく・・・。
と、多少?落ち込んでいた時期に
なっ、なんと!!
コウノトリさんが現れたんですね~!
そう!そうなんです!
お子ちゃまがお腹の中に!
↑当然、わたしのお腹じゃないですよ~。
翌年の8月には「お父さん」になると決まった
わたしは感傷に浸っている暇もなく、次なる戦略に
勤しむこととなります。
退社したことを知った起業前にお世話になっていた会社から
「戻ってこないか?」と、ありがたい言葉をいただいたり、
メーカーからもお誘いをいただいたりと嬉しい限りでした。
がっ!
わたしは「独立起業」の道を選択します。
「独立起業」を選択したわたしは逆に、メーカーに取引をしてほしいと
お願いして回ることになります。
しかし、以前勤めていた「老舗」の販売店の手前もあり
ふたつ返事で取引をしてもらえるメーカーも少なく…。
勤めていた時の実績は、メーカーでも分かっていても
いざ自分で起業するとなると状況は違うわけですね。
看板を背負って仕事をしていた時と「同等」とは
いかない訳です。
それでも数社だけは取引をしてもらえることになり
家賃の安いアパートの一室を事務所として起業します。
直接取り扱えないメーカーの商品は、「老舗」の会社から
仕入れるという型をとり、一応「顔を立てる」状態で
スタートします。
よし!子供もできるし頑張らないと!
と、思っていた矢先「バブル崩壊」という暗雲が
立ち込めてきます。
それでも一気に状況が悪化することがなかったので
なんとか順調?に進んでいきます。
そして8月、めでたく娘のお父さんになれたわたしは
今まで以上に仕事に没頭します。
起業して1年が過ぎたころ、以前からお世話になっていた
お客さんから「移転前に使っていた工場兼事務所が空くから
よかったら使うか?」と格安の家賃で貸してもらえることに
なります。
それと同時期に「部品の組み立て」の外注先を探しているという
情報もあり、一人では広すぎると思っていたので製造業にも進出
することになります。
「販売」と「製造」と分野の違うことに手を出すことに
諸先輩はあまりいい顔はしなかったのですが、わたしの
勢い?に流されて~って感じで状況を見守ってくれました。
案の定、最初に請け負った仕事は発注数が当初の予定の
3分の1程度しかなく、そのために雇ったパートさんたちの
維持も難しい状況に…。
このまま続けるわけにもいかないし「製造業」の方は
一旦、閉鎖しようと思っていたところに、あるメーカーから
外注のオファーが入ります。
さて、あるメーカーからのオファーが「製造業」を
維持していけるものだったのか…?
次回「起業!そして…」に続きます。
起業!そして独立起業!!
バブル経済真っ只中!に会社員として働いていた
わたしは「やりがい」という部分に少しずつギャップを
感じるようになり・・・。
詳しくは「バブルが追い風?そして起業!」を
ご覧ください。
さて、地元の高校を卒業し就職した会社を約8年で退社した
わたしは、先輩と2人で150万づつ出資し有限会社を設立します。
先輩が社長、わたしが専務?社長の奥さんが事務経理という形で
スタートしました。
わたしは起業とほぼ同時に結婚し、仕事もプライベートも
充実した日々を過ごすため気合を入れて突進します!
ただ、前回もお話したように「同業種での起業」でしたので
開業当初から、メーカーや以前勤めていた会社からの圧力は
想像以上に大きいものでした。
勤めていた時にしょっちゅう寄らせてもらってたお客さんに
開業の挨拶に行ってもなんか「よそよそしい」んですね。
なんでかな?と思っていたところ、中でも親しくしてもらってた
お客さんから「実は以前の会社から取引をしないでほしい」と
連絡が入っていたことを知らされます。
その会社にしてみても自社の利益を考えたら「申し出」を
無下に断ることもできず・・・といった状況だったんですね。
多少の邪魔が入るのは想定していましたが、
「けっこうドロドロした世界なんだな!」と無知なわたしは
痛感します。
それでも「バブル」が追い風となって月の売り上げ台数は
なんとかクリアしていました。
開業当初からあまり経費をかけれないので
事務所はメーカーさんの社屋の1室を使わせてもらってました。
いまのように携帯なんかも無い時代なので、連絡の手段は「ポケベル」
が一般的でしたね。
そんなこんなで正式に会社を設立して3カ月が経とうとしていたころ
社長は、ほとんど朝は事務所に顔を出さず夕方も用事がある時
以外は直帰するって感じで、メーカーさんとの打ち合わせは
わたしがするのが「当たり前」になっていました。
それはそれで構わなかったのですが、ある日社長の担当しているお客さんから
あるクレームが入ります。
なんと、発注した覚えが無いのに「契約書」が届いたと言うのです。
社長に確認を取ろうとしても返事がない。
どこでなにをしているのだろう??
メーカーの所長に確認したら確かに「そのお客さんの分で
発注もらってますよ」という返答。
とにかく事情が分からないし、お客さんも怒っているので
所長と一緒に社長からの連絡を待つことに。
ところがいくら待っても連絡がこない・・・。
やっと連絡が取れたのが、クレームがあってから約10時間後の
夜8時すぎ。
その日は時間も遅くなってしまったので、翌日に状況を確認することに。
翌日、社長にクレームの真相を確認をしたところ
な、なんと!「空売り」だったんです!
おいおい!「空売り」ってすぐにバレるようなことをなぜに?
なんだか裏切られたような感覚だったわたしに「謝罪」の言葉すら
無い態度に「一緒にやってくのはもう無理だな・・・」と。
二人で頑張ってやっていこう!と会社を立ち上げたのに
たった3ヶ月でつまらない失態をした「社長」をこれ以上
嫌いになるのもイヤだったので、わたしは会社から身を引く
決心をします。
あと2週間ほどで新しい年が訪れようとしていた
北国特有の「暗く寒い日」のことでした・・・。
次回は「起業!そして独立起業!!PartⅡ」に続きます!
バブルが追い風?そして起業!
停職処分を終え「復帰」したわたしに
またも「試練」が訪れるのでした!
是非、御覧ください。
ある意味開き直ったわたしは、初心に帰り「自分のやるべきことをやる!」
と気持ちを切り換え「人生で1番イヤな仕事」と思っていた「営業」に
没頭?します。
ちょうどそのころから世間は「バブル景気」という
いまでは考えられないような「超!好景気」に入ります。
とにかく株価は上がるし、土地の値段は高騰するし
金融機関もどんどん融資するし、企業は設備投資などに
バンバン資金を投入し、給料・ボーナスも上がる上がる・・・。
とてもいまの経済状況では考えられないような時期が
あったんです!
↑注:40代半ばよりも若い方は「なんのこっちゃ?」
かもですので「バブル景気」などで検索してみてね。
そんな景気が後押ししてくれたお陰で、わたしの営業成績も
順調に「ウナギ上り」伸びていきましたー!
とにかくお客さんが景気がいいので、忘年会や新年会なども
どの会社でも盛大に行われていました。
そのシーズンになると毎晩のように飲み会の「お誘い」があり
基本的に「断ることを知らない」わたしは仕事と酒の日々を
楽しんでました。
仕事もプライベートもとても楽しく過ごしていたのですが、
あるとき「ある不満」が湧いてきます。
なんだと思います?
そうなんです!
給料・ボーナスが他社と比べると、とにかく安い!
メーカー系の営業と比較すると自分の給料は約半分!?
えっ?おれの給料ってこんなに安いの?!と。
たしかに、給料日前にはいつも財布がスカスカの状態で
昼飯を食べるのも躊躇していましたからね~。
そのころになると、あの「冷た~いビーム!」を浴びせていた
常務も実績を認めてくれるようになり「頑張ってるな」と声を
かけてくれるようになっていました。
あっ!そうそう!
実はバブルと共にわたしの
第2次モテ期!またまたキタァー!!
ってのもあり2年くらい付き合っていた彼女がいたんです。
↑注:高卒ですぐ付き合った彼女とかもいたんですけどね(^^;
わたしは25歳になってたし、彼女は2つ上だったので
そろそろ「結婚」とかも考えないと・・・かな?
ということもあり「所得」に対して少しシビアに考えるように
なってたんですね。
専務(社長の息子)に給料・ボーナスの査定はどういうふうに
なっているのか?聞いてみても
「君が頑張って業績を上げているのは分かっている。
ただ、前からいる社員とのバランスもあるから
そう簡単には上げられない!」という回答。
そっか、多少「名の知れている会社」といっても
所詮は「同族会社」なんだし、自分の意見を通そうと思ったら
同族になるしか手は無いんだよな・・・。
と、考えるようになったら「やりがい」がどんどん薄れて
いったんですね。
でも仕事は「自分のためにやっていること。会社のためじゃない」と
きちんとやってましたよ!
そんなときに「メーカーにこないか?」と、ありがたいお誘いと
「一緒に会社を作らないか?」という2つのオファーが入ります。
2つの選択肢ができたわたしは、仕事上で尊敬していた先輩との
「独立起業」に傾いていきます。
いまの会社と「同業」での起業となると、いろいろと困難もあるだろうとは
思いましたが「バブル」が追い風?となり「起業」の道を選択するのでした。
さて次回は「起業!そして独立起業!!」をお送りします。
すっきりしないな~!悶々とした日々?!
入社1年目にして前代未聞の失態?を犯してしまった
わたしの「免停?!そして停職処分!」も宜しければ
御覧ください!
そんなこんなで、停職45日の処分を受けたわたしは
学生時代以来の「長期休み」?が手に入ったわけです。
やったー!休みだー!
なんて、喜んでいられる状態でもなく
車社会の中で運転できないことがこんなにも
不自由なものなのか!と思い知らされます。
それと同時にその間の給料も、当然、もらえない
わけです。
バイトするにも「謹慎」の身なので、あまり露出できない
こともあり・・・。
まだ8月というのに、気の早い「熊」のように
「冬眠」状態に突入です。
ダチ(お友だち)は「冷やかし」半分で
休みの日とかにはよく顔出ししてくれましたが、
内心「こいつもバカな奴だな~」って思って
たろうなと。
あっ!いや!内心では思ってないな!!
考えてみたら、直接「バカな奴だな~」って言われてたわ。
そんな友だち想い?の仲間のお陰で、適度に気分転換できた
わたしは無事に「謹慎」期間を終え仕事に復帰します。
常務の「氷のような冷やかな視線」を背に受けて
仕事に励むことになるのは言うまでもありませんが・・・。
それからは「交通違反」にかなり気を使いながら、
配達の仕事をソツなく?こなしていきます。
そして入社2年目には社内人事の関係で「営業部」に
異動になります。
営業=セールス
↑この仕事だけは自分には向かない!絶対やりたくない!と
思っていた業種のナンバー1でした。
毎日が苦痛で会社に行くのがイヤでイヤで・・・。
最初のころはメーカーの営業の方々が協力してくれて
なんとか営業としてのメンツ?は保てたのですが、
半年くらいして担当が転勤や退社などで状況が変わり・・・。
まるっきり「売れない営業マン」とレッテルを貼られる
こととなるのです。
営業部といっても、社内では営業に関しての機能が確立して
いなかった時期で教育やアドバイスなどができる体制では
なかったんですね。
営業なんだから数字さえ上げていれば文句はない!
どうやって数字を上げるか自分で考えろ!
と、言われましても・・・。
そんなこんなで、すっきりしない悶々とした日々が
続きます。
このまま「給料泥棒」と言われてまで会社にしがみつく
自信も体力もなく入社3年目に2度目の「退職」を考えます。
そのころと同時期、メーカーの所長に前代未聞の若手所長が
赴任してきます。
彼はまだ20代で東北の営業成績が三本の指に入るくらいの
「凄腕」の持ち主でした。
その彼と毎日のように同行営業をしていたわたしは
苦痛がピークに達し「本気で会社辞めよう」と決意します。
が!そのことに気付いていた所長はわたしに
「辞める前にすることがあるんじゃないかな?人生を変えたい
と思ったら自分を変えるしかないんじゃないかと思うよ。」
みたいなことを言われ、仕事ができない理由を他人のせいにして
自分を正当化していたことに気付きます。
このまま辞めても「なんか、かっこわりいしな~」と考えなおし
「もう少しだけ1からやってみよう!」と奮起します。
それからちょうどバブル景気の恩恵もあり「快進撃」が始まるのでした!
次回「バブルが追い風?そして起業!」に突入?します!
免停?!そして停職処分!
ごくありふれた少年時代を過ごし「これってモテ期?」なんて
多少の勘違い?もアリの「 少年時代編」も宜しければ御覧くださいね。
さて、順風満帆?で高校を無事卒業したわたしは地元の多少は名の知れた企業に就職します。
そのころは就職難と言われていた時期で、なかなか就職先が見つからずに困っていたとき、可愛がられていた?担任の先生から紹介してもらいなんとかその会社に滑り込むことができました。
先生ありがとう!
おかげで今の自分があるんです!
なんて、ちょっと大げさですけどあのころの年代で、就職は最初の大きな転機ですからね。
念願の「サラリーマン」になれたわたしはとにかく車に乗れるのが嬉しくてウレシクテ!
毎日のように地元のダチ(お友だち)とあちこち走り回ってましたね~。
と、言っても俗に言う「○○族」とかではないですよ~。
ただただ車で走ってるのが好きだったんです!
仕事の方は、特に難しいこともなくお客さんに注文の品物を、配達するのが日常の業務でした。
なので、ほぼ定時には帰れるという「薔薇色のサラリーマン」としての第一歩を踏み出します。
好きな車には乗れるし、仕事も体力的には多少キツイところはありましたが、プレッシャーなど感じることもなく楽しく過ごしていました。
が!勤務してから3カ月くらい経ったころ「あること」が起こります。
わたしはいつものように愛車に乗り会社に向かっていました。
ふと「たまには違う道を走っていこう」と思いつき、いつものルートとは違う道に入ってみました。
前にいた車が制限速度より遅いスピードでチンタラ走ってて「はみ禁」でもないし、ヌキ(追い越し)かけたんです。
「チンタラ走ってんじゃねーよ!」と、心の中で叫びながら追い越して車線を戻した瞬間、目の前に「ネズミ捕り」のレーダーが!!!
ヤバイ!と、ブレーキに足をかけたが「時すでに遅し」
がっつりレーダーに引っ掛かり、その先で制服姿のおまわりさんが、ニコニコしながら「手招き」していたのは言うまでもありません。
見事に?「一発免停」になったうえに遅刻した事情を話さない訳にもいかず・・・orz!
当時、交通安全協会の会長をしていた常務からこっぴどく怒られ・・・。
免停は30日間なんですが、1日講習を受けてそのあとの試験で合格点をとればその日1日だけで「免停」が免除になるんですよ。
試験も合格しきちんと1日で免除されて、仕事をこなしていた日々から2カ月が過ぎようとしていたころ・・・
また、事件が起こります!
そのときは「おれってほんとにバカだな!」ってつくずく思いましたね。
2度目のスピード違反でまた「免停」に・・・。
年内に2度の「免停」の場合、90日間の免許停止になるんです。
2日間の講習と試験を合格しても、半分の45日しか「免除」にならないんですよ。
当然、常務の逆鱗に触れ「お前なんか辞めてしまえー!!」となり、自分も「車の運転できないと仕事もできないし辞めよう」と思い社長の元へ・・・。
迷惑をお掛けしたことを謝罪し、退職のことを了承していただいてると思っていたわたしに社長が言われたことは、
「いまこの状況で辞めて次の会社に移ろうとしても、なぜ前の会社を辞めたのか?と聞かれるだろう。」
「聞かれなくても世間は狭いから聞こえていくかもしれない。」
「君のしたことは社会人としてのルールに反していることだし、それなりの罰は受けてもらわないといけないと思う。」
「辞めるのはある意味簡単だが、ここできちんと「ケジメ」をつけた上で先に進んだらどうだろうか?」と。
と、言うわけで退社を一時留まり「罰」を受けることにしたわたしは入社1年目で「停職45日」という貴重な経験?をすることになるのでした。
次は「すっきりしないな~!悶々とした日々?!」に続きます。
自己紹介「少年時代編」
わたしは東北の日本海側で生まれ育ち、両親と妻1人と娘3人で暮らしています。
まもなく54歳になりますが、現在は派遣社員として働きながら、インターネットを利用して「稼ぐ」ことを本業とすべく
日夜?学びながら楽しく?生活しています。
わたしの親は俗にいう「兼業農家」でメインに米を作り農繁期以外は、地元の工場などで働きながら、生計を立てているという家庭で育ちました。
わたしは3人兄姉の末っ子で、7つ上の姉と3つ上の兄がいます。
じいちゃんとばあちゃんは、よく可愛がってくれたんで両親よりも近い感じがしてましたね。
裕福な家庭ではありませんでしたが、すくすく?と育ったわたしは小学6年の2月に学校の裏山で友達数人とスキーをしていて右足を骨折し、卒業式と中学の入学式は入場行進に入れず最初から最後まで一人でポツ~ン。
「なんかおれ、超目立ってるぜ!」なんて余裕もなく、妙な緊張感でドキドキでしたね。
中学では野球部に入ったんですけど最初の2カ月は動けず、スコアラーやってました。
入部当初は骨折の影響もあり、けっこう体系がぽっちゃりだったんですね。
でも、ギプスがとれ動けるようになってから身体が締まり?身長も伸びて、気が付いたら兄貴よりも背が高くなってました。
そしたらなんと!
人生初のモテ期!? キタァー!!
先輩の女子から帰り道同じ方向だから一緒に帰ろうか?とか、全然、意識してなかった同級生からチョコもらったりとか、
進級してからは後輩の女の子からお手紙らしきものもらったりと、あのころは「第1次モテ期」だったのかと。
でも、ガキんちょだったわたしはあまりピン!とこなかったんですね。
いま思えば「もったいないことしたな~」
そんなこんなで中学を卒業し、地元の工業高校に進みます。
中学の時に野球のセンスの無さを思い知らされたわたしは
高校では「帰宅部」に入ろうと決意していました。
※注:「帰宅部」とは授業が終わったら速攻帰宅する部である。
ところが、中学のときの野球部の先輩たちが「ホッケー部」に5、6人ほど入っていて「いま入ればすぐレギュラーだぞ~」とか「練習もきつくないし楽しいぞ~」とお誘い?にきてくれました!
いまとは違うかと思いますが、その当時は先輩の言うことを無下に断ったりできない空気があり…。
「帰宅部」を泣く泣く退部し「ホッケー部」に入部することになるのでした。
あっ!ホッケー部ってアイスホッケーじゃないほうですよ!
あまりメジャーなスポーツじゃないんで知らない人のほうが多いかもなので、簡単に説明すると「1チーム11人の構成」で野球の硬球みたいな固い球を、スティックという棒で打ったりドリブルしたりしてゴールに入れるってゲームです。
試合運びはサッカーと似ていますが、一番違うところは球を足で蹴ってはダメってとこです。
蹴ってもいいよ!って言われても固くて蹴れないすけど…。
高校の3年間は「部活」をけっこう楽しんでやってましたね。
国体予選の強化メンバーで合宿や遠征など、結果的にはとても楽しい高校生活だったな~と。
ただ1つ心残りは、中学の時から仲のよかったソフトボール部の女子に「一緒にインターハイ行こうね!」って言われてたのに、県予選で敗退してしまったことっす!
さて、次回は波乱万丈なサラリーマン編「免停?!そして停職処分!」
に突入します!